森林生態系による気候変動調整サービスの多角的機能と経済的価値評価:炭素市場と自然資本会計への展望
はじめに
私たちの社会は、地球温暖化という喫緊の課題に直面しており、その解決には多角的なアプローチが不可欠です。この文脈において、森林生態系が提供する「気候変動調整サービス」は、単なる環境保全の枠を超え、経済活動や政策立案における重要な要素として注目を集めています。森林は光合成を通じて大気中の二酸化炭素(CO2)を吸収し、その炭素をバイオマスや土壌中に貯蔵することで、地球温暖化の緩和に大きく貢献しています。
本稿では、森林生態系が提供する気候変動調整サービスの多角的な機能、その生態学的メカニズム、そして環境経済学の視点から見た経済的価値評価のアプローチについて深く掘り下げます。特に、炭素市場における森林の役割と課題、さらに近年注目されている自然資本会計への組み込みに関する議論を通じて、持続可能な社会実現に向けた森林生態系サービスの可能性と課題を考察します。
森林生態系による気候変動調整サービスの基礎
森林生態系が提供する気候変動調整サービスは、主に以下の機能によって構成されます。
- 炭素隔離・貯蔵: 森林は光合成により大気中のCO2を吸収し、有機物として樹木(幹、枝、葉、根)や土壌中に炭素を固定・貯蔵します。これにより、大気中の温室効果ガス濃度の上昇を抑制します。
- 蒸発散作用による気温調整: 森林は葉からの蒸発散作用を通じて、周囲の大気中に水分を供給し、蒸発熱を奪うことで気温の上昇を抑制します。これは局所的な気候緩和効果としても重要です。
- 水循環の調整: 森林は降水を貯留し、土壌への浸透を促進することで、河川流量の安定化や地下水涵養に寄与します。これは間接的に地域的な水循環と気候パターンに影響を与えます。
これらの機能は、国際連合の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の報告書においても、気候変動緩和策の重要な柱として位置づけられており、パリ協定における各国の削減目標(NDC)達成にも不可欠な要素となっています。
多角的な機能とその生態学的メカニズム
森林の気候変動調整サービスは、複雑な生態学的プロセスによって支えられています。
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炭素隔離・貯蔵のメカニズム:
- 光合成: 樹木は光エネルギーを利用してCO2と水を有機物(ブドウ糖など)に変換し、成長に必要なエネルギーと物質を得ます。この過程で大気中のCO2が吸収されます。
- バイオマス貯蔵: 吸収された炭素は、樹木の幹、枝、葉、根といったバイオマスとして長期間貯蔵されます。樹木の成長段階や樹種によって炭素貯蔵量は異なりますが、成熟した森林ほど大量の炭素を保持する傾向があります。
- 土壌炭素貯蔵: 森林土壌には、枯れた葉や枝、根の残骸、微生物活動によって分解された有機物が豊富に含まれており、世界中の炭素貯蔵量の大きな部分を占めています。土壌の炭素貯蔵は、森林の管理方法によって大きく変動します。
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水循環と気温調整のメカニズム:
- 蒸発散: 森林の葉から水蒸気が放出される蒸発散作用は、広範囲にわたる気候システムに影響を及ぼします。これは熱帯林において特に顕著で、地域的な降雨パターンや気温の安定に寄与します。
- アルベド効果: 森林の持つアルベド(太陽光の反射率)は、地表の熱収支に影響を与えます。一般的に、常緑樹林は冬季の積雪期を除き、裸地や農地よりも低いアルベドを持つため、日射吸収量が多くなり、地域によっては温暖化効果をもたらす可能性も指摘されています。しかし、蒸発散による冷却効果がこれを上回ることが多いとされています。
これらの複雑な相互作用を理解することは、森林の気候変動調整能力を正確に評価し、効果的な管理戦略を策定する上で極めて重要です。
経済的価値評価のアプローチ
森林の気候変動調整サービスの経済的価値評価は、そのサービスの重要性を社会に認識させ、政策決定や投資判断を支援するために不可欠です。主に市場アプローチと非市場アプローチに大別されます。
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市場アプローチ: 炭素市場を通じた評価
- 排出量取引制度: 各国や地域で導入されている排出量取引制度(Cap and Trade)において、森林による炭素吸収はオフセットクレジットとして活用され、市場で取引されます。例えば、EU排出量取引制度(EU ETS)やカリフォルニア州の排出量取引制度が挙げられます。
- ボランタリー炭素市場: 法的な義務によらず、企業や個人が自主的に炭素排出量を相殺するためにクレジットを購入する市場です。日本のJ-クレジット制度や、国際的なVerified Carbon Standard (VCS) などがあります。森林プロジェクト、特にREDD+(開発途上国における森林減少・劣化からの排出削減等)は、この市場において重要な供給源となっています。
- 経済的価値の算出: 炭素クレジットの市場価格を基に、森林が吸収・貯蔵する炭素量に価格を乗じることで経済的価値を算出できます。例えば、1トンのCO2吸収に対して一定の価格が設定されることで、森林保全活動が収益源となり得ます。
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非市場アプローチ: 支払い意思額(WTP)に基づく評価
- 仮想評価法(Contingent Valuation Method, CVM): アンケート調査を通じて、森林の気候変動調整サービスを保全するために人々がいくら支払う意思があるかを直接的に尋ねる手法です。例えば、「この森林の炭素吸収能力を維持するために、毎月いくらまでなら追加で支払いますか」といった質問が用いられます。
- 選択実験法(Choice Experiment, CE): 森林の様々な属性(炭素貯蔵量、生物多様性、レクリエーション機会など)を組み合わせた複数の選択肢を提示し、回答者に最も好ましい選択肢を選ばせることで、各属性に対する支払い意思額を間接的に推定する手法です。これにより、単一のサービスだけでなく、複合的な便益に対する価値を評価することが可能です。
- 費用便益分析: 森林保全プロジェクトや政策がもたらす便益(気候変動調整、水質浄化、生物多様性保全など)の総額と、それに要する費用を比較し、その経済的効率性を評価します。これにより、社会にとって最も望ましい投資を特定する手助けとなります。
これらの評価手法は、森林の非市場的価値を可視化し、自然資本の重要性を経済的な言葉で表現するために不可欠です。
炭素市場における森林の役割と課題
炭素市場は、森林の気候変動調整サービスに対する経済的インセンティブを提供する強力なツールですが、その運用にはいくつかの課題も存在します。
- 測定・報告・検証(MRV)の課題: 森林の炭素吸収量や貯蔵量を正確に測定し、透明性をもって報告・検証することは、クレジットの信頼性を確保するために非常に重要です。リモートセンシング技術や地上調査を組み合わせた高度なモニタリング技術が求められます。
- 追加性(Additionality)の確保: 炭素クレジットが「追加的」である、つまり、そのプロジェクトがなければ発生しなかったであろう削減量や吸収量である、という証明は常に議論の的となります。通常の森林管理活動による炭素吸収と、意図的なプロジェクトによる追加的な吸収を区別する必要があります。
- リーケージ(Leakage)問題: ある地域で森林減少が抑制された結果、別の地域で森林減少が加速するといった「漏出」効果も考慮しなければなりません。これは、プロジェクトが地球全体での排出量削減に本当に貢献しているかという視点で重要です。
- 長期性・永続性(Permanence)の確保: 森林に貯蔵された炭素は、森林火災や病害、伐採などによって大気中に再放出される可能性があります。炭素貯蔵の永続性をどのように保証し、オフセット期間を設計するかは大きな課題です。
- 社会経済的公平性: REDD+などのプロジェクトでは、地域住民の権利、生計、土地利用慣行との調和が重要です。プロジェクトが地域コミュニティに公正な利益をもたらし、負の影響を与えないよう配慮する必要があります。
これらの課題に対し、国際機関や研究機関は、より堅牢なMRV手法の開発、地域社会との協働モデルの構築、多角的な便益(生物多様性保全など)を統合したアプローチ(Co-benefits)の導入などを進めています。
自然資本会計への展望
近年、生態系サービスを国の経済統計や企業の財務報告に統合しようとする動きが活発化しており、その中心にあるのが「自然資本会計」です。
- SEEA-EA(System of Environmental-Economic Accounting – Ecosystem Accounts): 国連統計委員会によって採択された「環境経済統合勘定 – 生態系勘定」は、生態系サービスを国の経済統計に体系的に組み込むための国際的なフレームワークです。これにより、森林が提供する炭素隔離サービスを物理量(例: 吸収されたCO2トン数)および貨幣価値(例: 炭素価格に基づく評価額)の両面から評価し、GDPのような既存の経済指標と並行して分析することが可能になります。
- 自然資本の価値評価: SEEA-EAは、森林そのものを自然資本として捉え、その規模(面積、状態)の変化と、そこから生み出される生態系サービスのフローを計測します。森林の炭素貯蔵量は、この自然資本のストックを構成する重要な要素の一つです。
- 企業における自然関連財務情報開示(TNFD): 企業活動が自然環境に与える影響や、自然環境からの依存度を評価し、財務情報として開示を求める枠組みである「自然関連財務情報開開示タスクフォース(TNFD)」の進展は、企業が自社のバリューチェーンにおける森林生態系サービスの重要性を認識し、その保全に積極的に関与するインセンティブとなります。企業が森林による炭素吸収プロジェクトに投資する際、その効果を自然資本会計の枠組みで評価し、財務報告に反映させる動きが加速する可能性があります。
自然資本会計の導入は、政策立案者や企業が、自然環境を単なるコストではなく、経済活動の基盤となる資本として認識し、長期的な視点での投資判断を行う上で不可欠なツールとなることが期待されます。
最新の研究動向と将来的な課題
森林生態系サービスに関する研究は、技術の進歩や社会情勢の変化に伴い、常に進化しています。
- リモートセンシング技術の進化: 衛星画像、航空レーザー測量(LiDAR)、ドローンなどのリモートセンシング技術の発展は、広範囲かつ高精度な森林バイオマス量や炭素貯蔵量のモニタリングを可能にしています。これにより、MRVの課題解決に大きく貢献し、炭素クレジットの信頼性向上に寄与しています。
- 生物多様性と炭素貯蔵の統合評価: 炭素貯蔵機能と生物多様性保全の間に存在するトレードオフやシナジーに関する研究が進んでいます。例えば、単一樹種の植林による炭素吸収は効率的かもしれませんが、生物多様性には負の影響を与える可能性があります。両者を最適化する多機能林業のあり方が模索されています。
- 気候変動下での森林の脆弱性と適応策: 気候変動の進行は、森林火災の頻発化、病害虫の拡大、異常気象による生育環境の変化など、森林の健全性に深刻な影響を及ぼしています。このような状況下での森林の炭素吸収能力の維持・向上に向けた適応策(例: 適応力のある樹種への転換、森林構造の多様化)が重要な研究テーマとなっています。
- 地域社会の参画とガバナンス: 森林生態系サービスの保全と持続的利用には、地域住民や先住民の知識と参加が不可欠です。公正なガバナンス体制の構築や、伝統的知識と科学的知見の融合に関する研究も進められています。
これらの研究は、より効果的な森林管理戦略や政策立案、そしてグローバルな気候変動対策の推進に大きく貢献すると期待されます。
まとめ
森林生態系が提供する気候変動調整サービスは、私たちの持続可能な未来にとって不可欠な自然の恵みです。本稿では、森林の炭素隔離・貯蔵、水循環・気温調整といった多角的な機能と、その生態学的メカニズムを解説しました。さらに、炭素市場を通じた市場アプローチ、CVMやCEといった非市場アプローチによる経済的価値評価手法を提示し、炭素市場における森林の役割と、MRV、追加性、リーケージ、永続性、社会公平性といった運用上の課題を考察しました。
加えて、SEEA-EAやTNFDといった自然資本会計の動向は、森林生態系サービスが経済・社会システムに統合されつつある現代的な潮流を示しています。最新のリモートセンシング技術の活用や、生物多様性との統合評価、気候変動適応策に関する研究は、今後の森林管理と政策立案において重要な示唆を与え続けるでしょう。
環境経済学を専攻する学生の皆様にとって、本稿が森林生態系サービスの深い理解と、将来の研究テーマ選定の一助となれば幸いです。持続可能な社会の実現に向けて、森林の恵みをどのように活かし、未来へ繋いでいくか、その答えを探求する道のりは、まだ始まったばかりです。
参考文献
- IPCC, 2021. Climate Change 2021: The Physical Science Basis. Contribution of Working Group I to the Sixth Assessment Report of the Intergovernmental Panel on Climate Change. Cambridge University Press.
- Costanza, R., et al., 1997. The value of the world's ecosystem services and natural capital. Nature, 387(6630), 253-260.
- Millennium Ecosystem Assessment, 2005. Ecosystems and Human Well-being: Synthesis. Island Press.
- UN (United Nations), 2021. System of Environmental-Economic Accounting—Ecosystem Accounts (SEEA EA).
- 日本森林学会, 各年. 日本森林学会大会発表データベース.
- J-クレジット制度. (https://www.j-credit.jp/)