食料生産を支える土壌生態系サービスの多角的機能と経済的価値評価:持続可能な農業への展望
はじめに
私たちの暮らしを支える最も基本的な生態系サービスの一つは、食料生産であり、その根源には土壌生態系が存在しています。土壌は単なる作物の生育基盤ではなく、生命活動を維持するための複雑なシステムであり、多岐にわたる生態系サービスを提供しています。これらのサービスは、長らくその価値が見過ごされがちでしたが、近年、気候変動や生物多様性の損失、食料安全保障といった地球規模の課題に直面する中で、その重要性が再認識され、学術的にも多角的な評価が進められています。
本稿では、食料生産を支える土壌生態系が提供する多角的機能について深掘りし、その経済的価値評価の手法や課題、さらには持続可能な農業への応用について考察します。これにより、土壌生態系の持つ本質的な価値を理解し、今後の環境経済学研究や政策立案の一助となる情報を提供することを目指します。
土壌生態系サービスの基礎概念
生態系サービスとは、人間が享受する自然の恵みを指し、通常は供給サービス、調整サービス、支持サービス、文化的サービスの4つに分類されます。土壌生態系は、これらの分類において複数のサービスを提供していますが、特に「支持サービス」として他のサービスの基盤となる役割が強調されます。
- 供給サービス: 食料(作物、牧草)、繊維、水、医薬品など、土壌から直接得られる資源。
- 調整サービス: 水質浄化、炭素貯留、洪水調節、病害虫抑制など、土壌の機能によって自然環境が調整されることで享受されるサービス。
- 支持サービス: 栄養循環、土壌形成、生物多様性の維持など、他の生態系サービスが機能するために不可欠な基盤的サービス。これには、微生物による有機物分解、土壌構造の維持などが含まれます。
- 文化的サービス: 景観形成、レクリエーション、教育・研究、精神的な豊かさなど、土壌と人間との相互作用を通じて得られる非物質的な恵み。
食料生産という供給サービスは、土壌の持つこれら全ての機能に支えられています。健康な土壌がなければ、安定した食料供給は望めません。
土壌生態系が提供する多角的機能
土壌生態系は、以下に示すような具体的な機能を通じて、私たちの食料生産と環境の健全性を維持しています。
1. 栄養循環と土壌肥沃度
土壌中の微生物(細菌、菌類など)は、有機物の分解を通じて植物が利用できる形に栄養素を変換します。特に、窒素固定細菌による大気中窒素の固定や、リン酸可溶化菌によるリン酸の供給は、化学肥料に頼らない自然な土壌肥沃度の維持に不可欠です。この自然の栄養循環機能が損なわれると、多量の化学肥料投入が必要となり、環境負荷の増加や生産コストの上昇に直結します。
2. 水の貯留・浄化と水供給
土壌はスポンジのように水を保持し、地下水への涵養や河川への供給を調節する重要な役割を担っています。健全な土壌構造は降雨を効果的に吸収し、洪水のリスクを低減し、干ばつ時には植物への水分供給を助けます。また、土壌中の微生物や粘土鉱物は、水中の汚染物質を吸着・分解し、自然の水質浄化システムとして機能します。
3. 炭素貯留と気候変動緩和
土壌は、陸上生態系における最大の炭素貯蔵庫の一つであり、その量は大気中の炭素量や植生の炭素量よりも多いとされています。植物が光合成によって取り込んだ炭素は、根を通じて土壌に供給され、有機物として蓄積されます。健全な土壌管理(例:不耕起栽培、被覆作物の導入、有機物施用)は、土壌への炭素貯留を促進し、大気中の二酸化炭素濃度を低減することで、気候変動の緩和に貢献します。
4. 生物多様性の維持と病害虫抑制
土壌中には、バクテリア、菌類、線虫、ダニ、昆虫など、膨大な種類の生物が生息しており、地球全体の生物多様性の約4分の1を占めるとも言われます。これらの土壌生物は、有機物分解、栄養循環、土壌構造形成だけでなく、病原菌や害虫の抑制にも寄与します。多様な土壌生物相は、特定の病害虫の異常繁殖を防ぎ、作物の健全な成長を促す「生物的防除」の基盤を提供します。
土壌生態系サービスの経済的価値評価
土壌生態系が提供するこれらの多角的機能の価値を定量化し、経済的側面から理解することは、持続可能な土地利用計画や政策立案において不可欠です。しかし、その多くが市場で取引されない非市場財であるため、評価は容易ではありません。
評価手法の概要
土壌生態系サービスの経済的価値評価には、様々な手法が用いられます。
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市場価格法 (Market Price Method): 土壌劣化による作物の収量減少がもたらす経済的損失や、土壌肥沃度低下を補うために投入される肥料・農薬の費用を算定する方法です。例えば、土壌侵食による農業生産性の低下が特定の地域の農業収入に与える影響を直接的に評価できます。
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費用代替法 (Cost Replacement Method): 自然の土壌生態系サービスが提供する機能が失われた場合に、人工的な手段でその機能を代替するためにかかる費用を算出します。例えば、土壌の自然な水質浄化機能が失われた際に必要となる水処理施設の建設・維持費用などが該当します。
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仮想評価法 (Contingent Valuation Method, CVM) / 表明選好法 (Stated Preference Method): アンケート調査などを通じて、人々が特定の土壌生態系サービス(例:炭素貯留機能の向上、生物多様性の保護)に対してどれくらいの金銭的価値を支払う意思があるか(Willingness To Pay: WTP)や、どれくらいの金銭的補償を要求するか(Willingness To Accept: WTA)を直接的に尋ねる方法です。非市場的価値の評価に適しています。
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交換費用法 (Avoided Cost Method) / 回避費用法: 土壌生態系サービスが適切に機能することで、将来的に回避できる費用や損害額を評価します。例えば、健全な土壌が洪水調節機能を発揮することで、洪水被害によるインフラ修復費用や経済活動の停滞による損失を回避する価値を評価します。
評価事例と課題
国際的な研究では、健全な土壌がもたらす経済的価値は非常に大きいと指摘されています。例えば、Costanza et al. (1997, 2014) は、世界の生態系サービス全体の経済的価値を推定し、その中で土壌形成や栄養循環の重要性を強調しています。具体的な地域事例としては、欧州連合(EU)の農地における土壌有機炭素の貯留能力を評価し、それが農業生産性向上や気候変動緩和に与える経済的便益が算出された研究などがあります。
しかし、土壌生態系サービスの経済的価値評価には複数の課題が存在します。 * 非市場的価値の定量化の難しさ: 特に支持サービスや文化的サービスなど、市場価格が明確でないサービスの価値を客観的に評価することは困難です。 * 複雑な相互作用: 土壌生態系内の多種多様な生物や物理化学的プロセスが複雑に相互作用しており、特定のサービスを切り出してその価値を評価することの限界があります。 * 時間スケールと不確実性: 土壌形成や炭素貯留といったプロセスは、非常に長い時間スケールで進行するため、短期的な評価ではその真の価値を捉えきれない可能性があります。また、気候変動や土地利用の変化による将来の不確実性も考慮する必要があります。 * データの不足: 多くの地域で、土壌の質やサービスに関する詳細なデータが不足しており、評価の精度を向上させるための基盤情報が求められています。
持続可能な土壌管理と政策
土壌生態系サービスの重要性が認識されるにつれて、その維持・向上を目指す持続可能な土壌管理手法や政策の導入が世界的に進められています。
1. 持続可能な農業実践
- 不耕起栽培 (No-Till Farming): 土壌を撹拌しないことで土壌構造を維持し、有機物分解を抑制して炭素貯留を促進します。土壌侵食の防止にも効果的です。
- 被覆作物 (Cover Cropping): 作物の非生育期間に土壌表面を覆うことで、土壌侵食を防ぎ、有機物の供給、雑草抑制、窒素固定などを通じて土壌肥沃度を高めます。
- 有機農業 / アグロエコロジー: 化学肥料や農薬の使用を最小限に抑え、土壌生物の活動を活発化させることで、自然な栄養循環や病害虫抑制機能を引き出します。生態系全体の健全性を重視するアグロエコロジーは、土壌だけでなく生物多様性や水の保全にも寄与します。
- 輪作 (Crop Rotation): 異なる作物を計画的に栽培することで、土壌の特定の栄養素の枯渇を防ぎ、病害虫のリスクを分散させます。
2. 政策的インセンティブと国際的動向
各国政府や国際機関は、土壌生態系サービスを保全・強化するための政策的インセンティブを導入しています。
- 生態系サービス支払い制度 (Payments for Ecosystem Services, PES): 土壌の炭素貯留や水質浄化といったサービスを提供する土地管理者(農家など)に対して、その貢献度に応じて金銭的補償を行う制度です。これにより、農家が持続可能な農業実践に移行する動機付けとなります。
- グリーン農業支援策: 農業従事者が環境保全型の農業に取り組む場合に、補助金や税制優遇などの支援を行う政策です。EUの共通農業政策(CAP)における「グリーン化」は、その代表的な例であり、日本でも環境保全型農業直接支払制度が導入されています。
- 国際的な取り組み: 国連食糧農業機関(FAO)は「世界土壌デー」を提唱し、土壌の重要性に対する意識向上を図っています。また、生物多様性および生態系サービスに関する政府間科学政策プラットフォーム(IPBES)の報告書では、土壌生物多様性の損失が地球規模の課題として取り上げられ、その保全に向けた行動が求められています。
まとめ
食料生産は、土壌生態系が提供する栄養循環、水管理、炭素貯留、生物多様性維持といった多角的機能に深く依存しています。これらの土壌生態系サービスは、その経済的価値が過小評価されがちであったため、近年では様々な評価手法が開発され、その価値を定量化する試みが進められています。
しかし、非市場的価値の評価の難しさや、複雑な生態系プロセス、データの不足といった課題も依然として存在します。これらの課題を克服し、土壌生態系サービスの真の価値を解明することは、今後の環境経済学研究における重要なテーマとなるでしょう。
持続可能な農業実践の普及と、それを支援する政策的インセンティブの導入は、土壌生態系サービスの保全と向上に不可欠です。アグロエコロジーや不耕起栽培、被覆作物の導入といった実践は、土壌の健全性を維持し、食料安全保障と気候変動対策の両立に貢献します。
今後、学際的なアプローチを通じて、生態学、土壌科学、経済学の知見を統合し、より精緻な評価手法の開発と、効果的な政策設計を進めることが求められています。本稿が、読者の皆様の研究活動や、レポート、卒業論文のテーマ選定の一助となれば幸いです。
参考文献
- Costanza, R., d'Arge, R., de Groot, R., Farber, S., Grasso, M., Hannon, B., ... & van den Belt, M. (1997). The value of the world's ecosystem services and natural capital. Nature, 387(6630), 253-260.
- Costanza, R., de Groot, R., Sutton, P., van der Ploeg, S., Anderson, S. J., Kubiszewski, I., ... & Brander, L. M. (2014). Changes in the global value of ecosystem services. Global Environmental Change, 26, 152-158.
- IPBES. (2019). Summary for policymakers of the global assessment report on biodiversity and ecosystem services of the Intergovernmental Science-Policy Platform on Biodiversity and Ecosystem Services. IPBES secretariat.
- Montanarella, L., Pennock, D. J., McKenzie, N., Badraoui, M., Chude, V., Forti, M. C., ... & Yemefack, M. (2016). Global Soil Organic Carbon Map (GSOCM) Technical Report. FAO.
- Pimentel, D., Wilson, C., McCullum, C., Huang, R., Dwen, P., Flack, J., ... & Cliff, B. (1997). Economic and environmental benefits of biodiversity. BioScience, 47(11), 747-757.
- UNCCD. (2017). The Global Land Outlook, first edition. UNCCD Secretariat.
(上記参考文献は例であり、実際の研究ではより多くの最新論文を参照することが推奨されます。)